時論 「『歴史を鑑に』とは ~ 中国共産党設立・辛亥革命の“後背地”だった日本~ 」
2021年10月
時論 「『歴史を鑑に』とは ~ 中国共産党設立・辛亥革命の“後背地”だった日本~ 」
東海日中関係学会会長 名古屋外国語大学名誉教授 川村 範行
(元東京新聞・中日新聞論説委員、上海支局長)
中国共産党設立やそれ以前の辛亥革命で中心となった人物は日本と深い関わりがある。日清戦争でアジアの大国清国が東の小国日本に敗れたことが、中国人の意識を大きく変えた。日本の明治維新に学べと、清国から留学生が続々日本へやってきて、祖国の建設に命をかける人材が輩出されたのである。
その最大の受け皿となったのが東京専門学校(1902年に早稲田大学に改称)である。清朝政府が日本に最初に送り出した留学生は東京専門学校に入学した。早稲田大学に改称後の1905年に「清国留学生部」が設置された。日本の大学で初めて中国語の授業科目を設置し、中国青年の間で評判が高かった。清国からの留学生は不断に1000名から1500名を数えたという。その中には、後に孫文の片腕となって辛亥革命を成就させた宋教仁や黄興等がおり、付属の高等予科には廖仲愷(周恩来総理の腹心として日中関係に尽力した廖承志の父親)が入学している。
さらに、中国共産党創立の中心人物の一人、李大釗が天津の北洋法政学堂(専門学校)を卒業後、1914年に早稲田大学政治経済学部(清国留学生部とは別)に入学した。李大釗は社会科学を経済から統合する「社会経済学」の樹立を目指し、熱心に学んだ。中でも人道主義的社会主義思想の安部磯雄教授の影響を受けた。
皮肉にも早稲田大学の創立者大隈重信が首相の時、1915年に袁世凱政権に対して21カ条要求を突きつけた。李大釗は大学内で袁世凱政権への批判運動を展開していたが、一転して21カ条要求への反対運動の先頭に立った。1916年早稲田大学「長期欠席除名」を受けて帰国する。
のちに中国共産党の創設に携わる陳独秀は1915年に早稲田大学留学中の李大釗と出会い、意気投合したという。陳独秀は李大釗より早い1901年に日本留学(成城学校=現、成城中学、高等学校)、前後5回日本を訪問している。陳独秀は帰国後、上海で「青年雑誌」(のち「新青年」)を発刊、1916年に北京大学の文化学長に就任、李大釗を北京大学に推薦する。李は1919年に北京大学教授に任ぜられ、マルクス主義に傾いていく。
1921年7月、上海で第一回中国共産党全国代表大会が開催されたことは周知の通りである。党発起メンバーの李大釗や陳独秀は参加できなかったが、参加した13人のうち薫必武(日本大学留学)など4名が日本留学組であったことは特筆される。
時は巡りて2008年12月1日、西原春夫・早稲田大学元総長は北京市郊外の北京市万安公墓にある李大釗のお墓に詣り、花輪を手向けた。「祖国の建設に命を捧げた早稲田大学出身者の想像される想いを根拠に、限りない感慨に浸らざるを得ない。・・・中退した母校の後輩に当る総長がお詣(まい)りに来てくれた。泉下の李大釗はどう思っただろうか」と、『日本の進路』2021年6月号に「命がけで活躍した中国人青年の想いが乗り移った私」と題して寄稿している。
江沢民国家主席が1998年に国賓来日した際に早稲田大学で講演した。次のリーダー胡錦濤国家主席も2008年に国賓来日した際に早稲田大学で講演し、中国の改革開放政策を支援した日本への感謝の言葉を中国の国家主席として初めて表明した。だが、辛亥革命や中国共産党設立に尽力した先人たちが早稲田大学はじめに日本留学に学んだことは、胡錦濤主席も江沢民主席も言及していない。早稲田大学での演説という折角のチャンスを生かしきっていない。
李大釗のあと、周恩来氏が1917年に来日し、東亜高等予備学校に学ぶ。彼の日記には、早稲田大学の中国人留学生を何度も訪問した、と記されている。亡くなる前に「どこにも行きたくないが、日本には行きたい」と語ったという。(法政大学名誉教授の王敏氏が『人民中国』2021年8月号「周恩来と日本」で、熊華源氏と廖心文氏の著書『1950年代の周恩来』から引用紹介)。日中国交正常化やそれ以前の対日政策には、周恩来氏の日本に対する理解と思いがあったからだと想像できよう。
習近平国家主席は2021年7月1日の共産党百周年の重要講話で。「中華民族の偉大な復興」に向けて、共産党の力を強く訴えた。10月9日には辛亥革命110周年の重要講話で、中国共産党が孫文の後継者であると述べたが、その孫文が日本人から物心両面の支援を受けたことには触れていない。
日本と中国の外交関係で中国側から「歴史を鑑(かがみ)に」と釘を刺される場面が多々ある。この場合の「歴史」とは、ほとんどが日中戦争のことを指す。しかし、それ以前の辛亥革命や中国共産党設立に尽力した先人たちの日本留学歴や日本人との親交の歴史も切り離すことはできない。さらには、二千年の友好往来の中でお互いに教え、教えられた、或いは助け、助けられた、という歴史も含めて、両国民が日中交流の歴史を幅広く客観的に知り、認識を深めていくことが真の意味での相互理解のために必要ではないだろうか。
( 2021年10月30日 東海日中関係学会公開研究会の講話より )